1・17
2021/01/17
街は復興しました。
あれから26年
そうか、もう26年か。それが実感です。私は30後半で一番の働き盛り、バブルが弾けてすべてを失いそれでも、もう一度と必死に働いていた時期だったと思う。、某企業で沖縄開発本部長を年末に命じられ夢を持って沖縄に飛んだ。その僅か半月後の出来事だった。
テレビに映った阪神高速の倒壊した画像は戦争映画を見ている様だった。電話は通じない、当時携帯電話は私のセルラーフォンは沖縄では未だ通じなかった。1日半たってコレクトコールならつながる事が解って、連絡を取った。私は身内に不幸は無かったが会社は、ほどなく倒産した。次に務めた会社も半年持たずに倒産をした。それでも私よりもっと大変な人たちが溢れていて、神戸の街は大変だった。限界を超えると不幸とか附いていないとか考える前に今日をどうするかで必死に成り、むしろ気持ちが少し前向きになったのを覚えている。1年後位に,和讃の会の前身に成るボランティア団体 神戸助け隊 を立ち上げた。仮設住宅で掃除、電球交換、夜回り、復興住宅への引っ越し。毎日やることだらけで、ある意味充実した日々だった。不思議と皆が優しかった、仮設住宅にもそれなりのコミュニティが出来た頃、復興住宅の引っ越しが始まった。マスコミはあまり報じなかったけど真新しい復興住宅に変わった高齢者の自殺は結構多かった、震災で壊れ、仮設住宅で出来た付き合いも離され、隣の声も聞こえない鉄筋の建物は復興のシンボルでは有ったが私は未だに行くのは苦手で有る。
記憶も断片的で少しずつ遠くなって行く阪神淡路大震災。それでよいのだろうと思う、ただ1年に一日、この日だけは酒も飲まず、どこへも行かず神戸に居たいと思っている。普段はしないが、今日だけは神戸の事を考えて居よう。6400余名の犠牲者に対して、今生かされている者の使命だと私は考えています。