友が死んだ
2021/01/29
早すぎると思う現実
そろそろ終活
26日の晩に電話が鳴った。昔の仕事仲間が、死んだ56歳だった。前の職場の同期で、私が転職した後も、飲み仲間として付き合いがあった。ここ暫くはご無沙汰をしていた。去年のコロナ騒動、緊急事態宣言で飲みに行く事は控えていた。解除に成って少し忙しかったのと、そうこうしている間に2度目の緊急事態宣言。少しご無沙汰をしていたが、又この時期が明ければ一度明石に出かけるかと、思っていた。
彼とはもう10年も前の出会いに成る、大手互助会の営業の同期だった。身長が180有り、恰幅がよく貧相な私とは対照的だった。営業スタイルは粘り強く悪い言い方に成るかもだが、手段を選ばず数字にこだわるタイプだった。のちに支部長までに成るのだが、営業スタイル、又互助会の手法が嫌で離れた私とは対照的だっただけに、葬儀はいかに有るべきかと飲みの席ではよく議論に成った。議論と言ってもワイワイ騒ぐだけの他愛も無い議論だったが。
1年半ほど前、業績が悪く支部長を離れた。少し疲れていたようだが、高校生の娘が居るからまだまだと言っていた、倒れたのはその直ぐ後だったらしい。
28日、私も通夜を持っていたので式には間に合わなかった。遅掛けに訪れると昔懐かしい顔がそこには有って、皆お手伝いで残ってくれて居た様だった。
棺の中の彼は、痩せて小さくなって居た、子供がお父さんの服を着ている様で、首回りも肩回り小さくなって居た。心筋梗塞で倒れて入院した時、癌が発見されたらしい。酒好きだったが健康な彼をここまで変える病気は恐ろしいものだと改めて感じた。
当家さんは帰って居なかったので、無宗教のお別れ会だったが、無断で讃仏偈と阿弥陀経を枕元でお勤めをさせて頂いた。忘れないのは勿論だが、僅かな香典と、これが私なりの供養だと。
この歳で泣く事も無い、寂しく感じる事も無い。唯、現実自分よりはるかに若い知り合いの人が先に旅立った事は普段から終活について考えて居るつもりだったが、自分の事として考えて居る様で実は未だ真剣に終活について考えて居なかったのだろう。若し自分が明日にと考えたらやらなければ成らない事はあまりにも多い気がする。他人の死に関しては慣れているつもりでも、自分の死にはちゃんと向き合えない、どっか自分は大丈夫と言う思いは有った。やはり、終活は難しい問題だと思う。
終活、相続が大変ですと言う、お葬儀が大変ですと言う、墓仕舞い、遺品整理が大変ですと言うが、本当は一番大変のは向き合う事なのもかも知れない。自分は関係ない、自分は大丈夫と、どこか根拠もなく信じていたが、私より、遥かに若い彼の死はそれを考えさせられる出来事だった。痩せては居たが少し笑顔に見える彼の顔は
「コイさんはまだまだ甘いですよ。」と言っている様だった。
合掌 釋 一道